小泉淳作 東大寺襖絵〜蓮池〜|私雨 その5

左目が不自由になってから
「みる」ということに興味がなくなった

自分が望むように見えないからだ


見えなくなって以来
いわゆる「観光」にも興味がなくなった

出かけない訳ではないが
出かける目的が変わった

初めは子供の楽しみごとのため
そして 興味と体験のためにと

あるものを「みる」楽しみから 
何かを「感じる」楽しみに

 
大学は美術大学だったこともあり
美術展はなんでも好きだった

けれど すっかりどれも
足を運ぶ気にはならなかった

どうしても「鑑賞」に楽しみを見出せず
「観る」ものにお金を払うのも嫌だった

だから 出向くこともほとんどなかった



唯一「観る」ことになったのは
「瀬戸内国際芸術祭」の作品だ

瀬戸内の島々を舞台に
3年に一度開催される現代アートの祭典


随分前になるが
きっかけは 義母のお墓参り

せっかくの機会と「瀬戸内海」を
子供達に見せたくて予定を立てた

いくつかの島に立ち寄って
思いがけなくいろんな作品に出会った

豊島美術館は気に入ったが
結局そこまでだった

みんなで島を自転車で巡ったことが
私にとっては一番の収穫だった

どうもアンテナが鈍ってしまったようだ



その後も芸術品に興味も持てず
新しい建築物にもなんの魅力も感じられずにいた



そんなある日
たまたまつけたテレビから目が離せなくなった

そこでは 小泉淳作氏が
東大寺襖絵の「しだれ桜」と「蓮池」を描いていた


長く座ると痛む足を気遣いながら
体よりも大きな襖に絵を描き続ける

一筆一筆 目を見開き
無心にならないと描けないと言いながら


自然が発する「気」を捉える人と言われるが
小泉氏の「気」を入魂しているように見えた

尋常じゃない集中力と
何かに取り憑かれたように筆を動かし続ける執念


華美な小手先の技術ではなく
そこには芸術特有の優雅さもなかった

そう 私が目が不自由になって捨てたもの

そして その忌み嫌った根源を
小泉氏も感じていたのではと思った


無数の点をひたすら打つことで
輪郭を描かずして描く「吉野の桜」

極楽浄土を表し 蕾から花が枯れゆくまで
全て異なるかたち 命として描く「蓮池」


80を過ぎて満身創痍になりながらも
命を吹き込みながら描くストイックな姿勢

私は胸をわしづかみにされ
その場から動けずにいた


そして この番組が終わった時

どうしても この襖絵を
見に行かないといけないと思った


今まで芸術作品を見て
自分の中から突き動かされることはなかった

けれど この時はおぼつかない自分に
一本の光がさし込んだような気がした


煌びやかさや上辺だけの美しさより
もっと泥臭い中から輝くものの魅力

小泉氏の生き様が
まだ沈んでいた私に息を吹き込んでくれた

間違っていない と


これらの蓮池16枚や枝垂れ桜など計40枚は
2010年に東大寺に襖絵として奉納された

80代で5年にわたってこの大作を仕上げ
奉納した当時 小泉氏は85歳だった

また 建長寺の天井画の双龍図も
80代で描いたというから面食らってしまう



テレビで襖絵を見て以来
実はまだ実物を見てはいない

なかなか日が合わず 叶ってはいない


合わせるものではなく
そのうち合うであろうと思っている

それがいけないのかもしれないが


小泉氏の特番は数年前に再放送を見たが
頭の中で未だ色褪せていないのが幸いだ

なんとなく 自分の気持ちが
もう少し昇華してから向き合いたいと思う

それまでは手近でイメージ



今年も近所の池の蓮が咲いた
この季節になるといつも思い出す

小泉氏がしっとりと蓮に色を乗せる姿を


いつの間にか 私の中で
特別な花の一つになった「蓮の花」

そして 今年もまた
東大寺の春の一般公開が終わった事を知る


ちゃんとできてるかな と思いながら
ちゃんと進んでる と暗示をかけながら

蓮を眺めながら 少しだけ瞑想

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