
私を悩ます
逃れられない3つの要因
視界欠損による左目の不自由さ
視界を少しずつ狭める緑内障
そして
太陽に当たれない光線過敏症
視界が戻ることはないから
それは諦めて慣れるしかないし
緑内障もひたすら点眼して
進行を遅らせることしかできない
そして どうにも対処のしようがない
光線過敏症は日々太陽との戦い
風邪を引いたり 頭痛がしたり
完治が見える病気と違って
終わりが見えない病気や
薬の成果が見えない病気は
自分のコンディションによって
精神面にも少なからず影響がでる
状況は変わらなくても
病気とうまく付き合って
何もなかった頃のように
過ごしていたとしても
定期的な検査によって
自分の状況を嫌でも思い知らされる
例えば 半年に一回やってくる
視野の広さを診る「視野検査」
調子良く過ごしていたペースが
また振り出しに戻される
見えないところが黒くなる検査結果
両目とも黒い部分はあるものの
左目はいつも ほとんど真っ黒だ
改めて自分の目が見えてないことや
緑内障の進行で視野が狭くなったことを
毎回説明されるのだが
その黒さにノックアウトされる
それが何年も繰り返されるが
いまだに慣れることができない
私も そして家族も
初めのころは大変だったと思う
納得できなかっただろうし
私自身も途方に暮れていたから
しかし まだ子供達も小さく
そんなに覚えていない頃だったと思う
私が泣くと子供が心配するので
子供の前で泣かないと決めていたし
今でも思い出してしまう
一番辛くて泣いていたのは
子供達が寝た後
その寝顔を見ているときだった
「いつまでこの子達の成長を
この目で見ることができるのだろう」
そんな不安がいつも押し寄せてきて
眠っている子を抱きしめて泣いた
あの頃は急に左目が見えなくなったので
数年は本当に不安で仕方がなかったのだ
そんな毎日が過ぎ
子供も成長し
中学生になった頃
子供が異常に爪を噛んだり
気がつくと
髪の毛を抜くようになった
母が他界したあとは
私と実家との確執があったため
子供達だけで
遊びに行かせていたのだが
いつの間にか「楽しい祖父宅」で
私のせいで子供達が矢面に立たされ
辛い思いをするようになっていたらしい
ある時ついに
「もう2度と行きたくない」
と泣いて帰ってきたのだ
実家では可愛がられていたし
そんなに辛かったなんて
思いもしなかった
「高橋和巳」という
精神科医の著書に
「子は親を救うために「心の病」になる」
という本がある
知人と話しをしている時に
紹介された本である
私は親とうまくいかなかったので
気になって目を通したことがあった
そんな子供の様子を見て
その本がふと頭をかすめた
子供は親のために役に立ちたい
親を救いたいと思う
そして時には
親の代わりに親の抱えるストレスや
心の病気を背負おうとしてしまう
子供はちゃんと知っている
ちゃんと見て 感じている
私はそう思った
そして
ますます
「これじゃいけない」
何かを始めて
いよいよ変えないといけないと思った
長女は中学
長男はすでに小学生
次男も小学校に上がった
もう動かない理由はない と
子供に背負わせてる場合ではない
光線過敏症のせいで
毎日の通勤が出来なかったので
とっかかりに
まずは内職程度に
「ライター」をした
そして もう少し本格的に と
図面をパソコンで描く仕事を
少しずつ始めてみた頃だった
まだテレワークという言葉も
一般的ではなかったその頃
「家で働く」ということは
「働いている」という意識も薄く
稼げればいいのか?
何を始めればいいのか?
そんな疑問はあったものの
まずは「できること」を始めた
