第三章 第五話 子育てと仕事の両立への憧れ

元々はどちらかというと「仕事人間」

大学の専攻は「建築」だったが
設計そのものが絶対したい

というわけではなかった


いろんなことを網羅しないと
本当の「建築」は建てられない

裏を返せばいろいろ学べる
なろうと思えば 何にでもなれる

やりたいことがありすぎて
欲張りだった私にとって

絶対に自分向きだ 
と思って進んだ学科だった


卒業後は設計をはじめ 様々な職種や
色々な業務を覚えていった

だから 私にとって仕事は娯楽で
夜中の施工業務すら楽しかった



ところが ある日突然
母の余命宣告を受けた

ずっと母とは確執があったので
せめて残された時間だけは介護を

と 仕事から一旦離れたのだが

数ヶ月の予定が延び延びになり
結局5年も携わることになった


その間は仕事にもなかなか戻れず
今のうちと結婚し出産をしたものの

生活が落ち着き
いざ仕事に戻ろうとした時には

待機児童問題に阻まれて
子供を預けられなかった

そして 頼める人も近くにおらず
思うように仕事に戻れなかった


当時の社会は育児に優しくなく
制度も十分に整備されていなかった

幼い子供がいる母親の復職は厳しく
さらに私の体調もどんどん悪くなり

社会からはますます離れてしまい
光線過敏の発症が復職を絶望的にした


今でこそテレワークがあるが
当時は内職程度の仕事しかなく

新しく何かを学ぼうにも
体調の悪さと3人の子供で1日が終わり

時間も気力も体力も続かなかった


いくつか出来る内職はしてみたものの
仕事を始めても結局子供につかまる

自分の思うように進まず
集中できないことがストレスにもなった



在宅の仕事は
仕事と日常の線引きが難しい

自分一人なら
場所や時間で区切ることもできるが

子どもがいるとなかなか難しい
ましてや まだ幼児だと相当難しい

集中したくても子供の都合で呼ばれ
わがままを言われて中断される

やろうと思っていたことの
半分も進まないまま 期限が刻々と近づく

そして気がつくと朝になっていて
締切前に慌てて徹夜する日々



少しでも外勤ができれば良かった
子供を預けて働きたかった

「家を出る」その時間だけは
子供に邪魔をされないからだ

自分自身の気分転換にもなり
社会参加が自分の自信にもつながる

だがしかし 預けられないのだから
どうしようもなかった


待機児童に悩まされた6年が過ぎ
気づけば上の子達は小学校に上り

やっと手が離るはずであったが
その頃には3人目が生まれていて

体調を崩して闘病が始まっていたので
「外勤」という選択はできなかった



ところが 
どうしようもないのに


「3人もいるのに裕福ね」とか
「働きもしないで浪費して」


などと周りや身内から
イヤミを言われる


こちらも体調が良ければ気分もいい
気分も良ければ気持ちも強い

何を言われようが軽く流せる

ところが 体調が悪いと気分が沈む
そして 気持ちも弱くなってしまう

小さなことが大きな傷となって
晴れない気持ちの中に積み重なる



「フレネミー」

という言葉がある

「フレンド(友)」と「エネミー(敵)」
を合わせて作られた言葉

表では仲良くしながら
裏では悪口や噂を広げる

もともと相手の成功を喜ばない
友人を装った敵のことをいうそうだ


心が弱い時は 

まわりの人がみんな

「フレネミー」ではないか

と疑いたくなってしまう

そうすると今度は
人と話すことが面倒になってくる


外で働ける人への羨望と
働きたい気持ちがますます大きくなり

働けない自分の不甲斐なさを感じて
どんどん自己肯定感が下がっていく

そして 現実からの逃避願望が
フツフツと膨らんでいった



現実的に振り返ってみると


初めは看病や子育てに手一杯だったし
働けないストレスもあったと思う

けれど そもそも

外で働き続けられる体力もなかったと思う

まだ働き盛りの30代
やりたいことも山積みだったが

本当に働いていたら
もっと体を壊していたはずだ


だが しかし 
それは 今だから思えること

頑張りすぎた私に
「少し休め」と病気がやってきて

その「処方箋」として
ずっと出来ずに諦めた3人目が

生まれてきてくれたんだろうな と


人に話せず いつも一人で自己完結して
何でも抱えこんでしまう私に

神様が立ち止まるために仕向けた
荒業だったのだろうな と

残念ながら

55を過ぎないと

そのことに気づきませんでした

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